昭和45年7月29日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方のことを、神、神,と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげのうけはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
御道の信心は、生き神への道と考えております。お互いが、みんな生き神になりえるものを、全部が頂いておる。みんなが神の氏子ということは、神の子としての命をみんなが持っておる。そこで、神とか、または生き神としての、おー、働きというものが出来なければ、神としての値打ちはない訳である。ですから、その値打ちを頂くことのために、信心があると言うて良い訳です。「ね」。その値打ちを作ることのために、信心があるということである。「ね」。
ですからもう、そういうように、はっきりとした信心の眼目というか、目当てというものが、しておるのでございますからね、えー、そこんところが何時も、おー、焦点になり、そこんところを焦点にして、えー、思い、または行うところに、信心の稽古があるわけです。皆さん、そんなことを思うて見たことがおありになるでしょうか。自分は、生き神様になる稽古をさせて頂いておるんだ。そういう道を教えて下さるのが金光教だというふうに思いになったことがあるでしょうか。それをね、思いもせんで、ただ、何十年間お参りをしておりますということでは、もう、だから、金光さんのご信心の値打ちはないとです。「ね」。そういう意味で私はね、いろんな助かり方あはありますよね。例え助かるということは、おかげを頂くという方は。一生懸命参る。一生懸命御用をする。けどもその、一生懸命に参ることも、一生懸命に御用させていただくことも、例えば、生き神になる道をたどらせて頂いておる過程だという事をですね。私も、忘れた、んー、金光教の信心んもとる、いいや私共はそげん、生き神さんにならんでん良かと、おかげさえ頂きゃ良かと、言うような考え方ではね、金光様のご信心は、言うならば、この、成就も成立もないわけです。「ね」。そこでね、私共が、様々な問題をとらえ、様々な生き神にならせて頂き生き神ということは、ま、神になると。その、一つ手立てとでも申しましょうかね。神になるその手立てというものを工夫するわけなのです。「ね」。
昨日、一昨日の朝の御理解でしたね、いわゆる、うー、固い心という事を頂きましたですね。確固たる精神、「ね」。あのときの御理解を、えー、頂いて、そのあとに、久留米の佐田さんたちが、ここでお届けになりました。あー、そん時に、圭介君ですね、あそこに参ってきとります、あの、その朝、もう夫婦でもう、朝参りをしようと思うて、えー、起きられたところが、圭介君があまりにもぐっすり眠っておるから、もう今日は起こさんで行きましょうと言うてその、思いよった。そして、出掛けよったところが、圭介君が飛び起きるようにして起きてきて、そのう、お母さん、お母さん、僕は只今ね、御心願、御神夢を頂いたと言うて起きてきたち言う。「ね」。どういう御神夢じゃったねと言うたところが、あのね、海岸、こう海辺の海岸にね、大きな亀がおったち言う。「ね」。そしたらね、小学校五年生ぐらいな男の子が出てきてね、その亀にまたがったち。そしたら、その亀がね、ずーっと海の中にはいって行く、お知らせを頂いたち言うて。(ふっふっふ)小学校、今二年生ですか。何時もあの、その日のご理解を、ようあの御神夢に頂くんですよねえ。子供でも、やはり、一心というか、無心というか、まあ、ほんとの無心というのでしょうね。訳が分かっておろうとは思われませんけれども、ただ、ああしてもう、二年間ですか、「ね」。いわゆる、毎朝、朝参りをしておる。お父さん達、お母さんに付いて参ってくる。 ですから、そういう無心の状態というか、そういう心に神様が働きよりなさる訳でしょうねえ。我情がない、我欲がない。こりば貰わんならんけん今日は参ろう、こりばお願いせんならんけん今日は参ろうというのじゃない、無心の状態。そういうのに、神様が働きかけよりなさるのじゃろうと思います。私がその時申しました。はー、たった、圭介君が頂いておる、たったそれだけで、今日私が三十分間お話をしたこと。いわばその全てが、その事を言いたかったんですからねと言うて、話したことです。「ね」。固い心というのは、「ね」、例えていうと、ここでは、神のお知らせを、親先生、私のことを時にお知らせを下さるですね神が。いわゆる亀にまたがるということは、亀に任せるということ。いわゆる、神に身任せです。「ね」。
私は、この神になるという様々な方法があります。それはね、その、神に身任せということ。神様任せということ。「ね」。それにはもう、自分の心と言うのはないでしょう。我情がない、我欲がない。神様任せに、神様任せになりますという心なのです。「ね」。亀が人を乗せて海の中にはいって行く。「ね」。これはまあ、浦島太郎の一つの昔話を思うて見ると分かります「ね」。ま、竜宮というところを、まあ、おかげの頂点と致しましょうかね。最高のおかげといたしましょうか。その、最高のおかげを頂くためにはです、やはり、神の背中にまたがらなければ、おかげは受けられん。任せきるおかげ。そこで、その任せきる稽古をさせて頂くのが信心です。自分の都合の良いことだけなら、誰だって任せますよね。もう、随分と信心の稽古させていただいて、結局は、親先生任せになるよりは他にはないと固い決心が出けた。それでもです、さあ、亀の背中に乗って、海を渡って行きよるうちに、大きな波が打ってくるとです、「ね」。このまま、命を取られるとじゃなかろうかと、溺れてしまうのじゃなかろうかと思うようなこともある。その朝の御理解がそうでしたよね。一旦、土俵上に出たからはです、よし投げ殺されても、文句は申しませんというような、固い堅固な心、固い心を持って土俵上には上がらなければならん。そういう心を持って、信心の土俵上に上がれというご理解でしたです。神「ね」。神に任せるということは、いわゆる、亀の背中に自分の身を任せるということ。どこを、どう辿って行こうがです。どういう波が打ち寄せてきようがです。とにかく背中にしがみついて、生神金光大神、生神金光大神となえながら、そこを通り抜ける以外はない。そういう生き方こそです、神になる道だとこう思います。「ね」。それは、任せるということは無心ということなのです。どうしても、あーた、小学校の一年生か二年生の子供にですよね、ま、一年生の時から、ずーっとお参りしてきておりますが、やっぱ、ずーっと、色々、その、それこそ、僕が御神夢頂いたというほどしに、はっきり頂くんですよねえ。その、無心の心に神様が現れたのです。だから、私共は、そういう無心になることのために、信心の稽古をし、またそのために、様々なひどい修行もです、相手させていただくわけなんです。「ね」。神様任せということはね、どうでも自分の都合のいいことだけじゃないのですよ。言い訳なんか全然あってよかろうはずはないとです。いわゆる、どのような場合でも、「はい」と答える以外にない心が無心です。「ね」。例えばほんなら、今日は、親先生が、ちょいと残れと仰るばってん、今日は忙しかけん残られんと。例えそう思うことはいいでしょう人間ですから。けれども、泣く泣くでも、「はい」という心なんです。それが、無心になる稽古なんです。「ね」。そらもう、先生が言いなさるよりか、自分の思う通りしたほうが、儲かるごたるけれども、先生が右と言いなさるから、左と言いなさるから、それに任せる。そこには、損とか得とかと言うものはもう、了見にはないです。そういう心、そういう稽古が無心になる稽古です。自分の心が無心になる。
昨日は、旗崎教会の夏の御大祭でございましたから、若先生がおかげを頂きました。堤清ざんがお供をして行って下さった。帰ってまいりましてから、清さんが私に言われることです。親先生、今日は有難いと思いましたち。何でそげん有難かったかち言うたら、私は、良い若先生を頂いておることが、今日ほど有難いと思うた事はなかったちこう言われる。どこんにきが、そげん若先生が有難かったのち言うたら、まあ、とりわけその、あちらその、婦人の御信者さんが、あー、おいいですから、ま、お参りにも婦人の御信者さんが多かった、からではありますけれどもです。もう、それこそ、誰でん、先生方を初めみんながです、大祓いがどんどん上がりますね、お祭りが段々進む。もう、汗水ちゃ出らんぐらいに、そろーっと、上品に上げてござるというわけです。ところがもう、うちの若先生だけはもう、兎に角もう、一生懸命、それこそ汗ぶるぶるになってお祭りを、の祭員としての御用を頂いておられるのを見てからね、もう、僕まで一生懸命に、丁度一時の御祈念のような思いでですね、大祓いを上げさせて頂いて、頂き終わってから汗を拭き拭き感じたことなんです。私は、若先生を、有難い若先生を頂いておるという事を、今日ほど有難い。もう、他所の大祭じゃけんで、「ね」。よそのお祭りじゃけんで、まあ、務めるだけ務めりゃいいのだから、そげん一生懸命ならんでん良かろばってん、というような中にあっても、一生懸命だったとこういうわけなんです。私は、それを聞いてからね、ふと、まあ、思うた。なるほど清さん、有難い、有難いと、まあ、言うておるけれども、よそでまで、そげんせんでん良かところえと私は(あっはは)私も思うた(あっはは)。なしかち言うと、それではなくても、合楽は拝み屋とか、拝み信心とかって言われとるんですからね。本当言うたら、もう、合楽ぐらい拝まんとこは無いです。「ね」。よそ辺りでん、もう、いちいちお届けがあると、いちいち御神前にでて、一生懸命拝んで下さるのが普通です、この久留米地区は、とりわけ。ところが私は、全然拝まんでしょうが。いわゆる、お勤めのときだけ。それも、例えば、朝の御祈念は、それこそ私は、うんともすんとも言わんですよ。一時間ここへ御神前に出たら。ただ、頭を下げとるだけ、言うならば、形の上においては。四時の御祈念だってそうです。「ね」。夜の御祈念には、まあ、天津祝詞、拝詞天地書付を奏上するくらいのことです。私はです。ほんなら、だから信者さん方も、それに習うて、あんまり拝まないですねえ。とりわけここでは、御理解を大事に致しますから、例えば、拝みよっても、一生懸命大祓い上げたり、天津祝詞を奏上したりしよると、その、御理解の邪魔になる。それで、いわゆる、黙祷。黙って御祈念をするのが、大体、合楽の流儀なんです。「ね」。ま、一生懸命拝むというのは、この、夏の修行の一月間だけぐらいなことですよね。一生懸命なって、まあ、拝むということは。ですから、例えば、若先生がよそへ行ってからまでも、こ、こうやって拝むなら、やっぱ合楽は拝み信心ばい、親父が拝みやじゃけん、やっぱ息子も拝みやになったという風に、思われどんせんじゃろかと思いましたもんだからね。そげん拝まんでん、そげんせんでん良かろと。それで私も、実は思うたです。けども折角、清さんが、はー、もう、有難い、有難いち言いよるけん、そのイメージを壊したらいけんと思いますからね。まあ。そら良かったのち言うとりました。「ね」。ところが、今日この、御理解18節を頂かせていただいてですたい。「ね」。もう、それこそここの御理解18節は、もう、どれだけ皆さんが頂かれたご理解やら分からない。だから、今日はどういうふうなところを頂くだろうかと思うて、あの、神様に御祈念させて頂きよったら、昨日、清さんが言われたその事を頂くんです。若先生が、一生懸命に御祈念をしている姿なんです。「ね」。だからね、信心の稽古というのは、只今申しますように、いわゆる、「ね」。神になる稽古なんです、金光様のご信心は。「ね」。だから、どういう時に、生き神、神とはここにね、神が生まれるということであってと仰る。生き神とは、神がここに生まれるということであってと。だから、生まれるからにはね、ただ、一人では生まれんということ。そうでしょうが。「ね」。人間でもそう。男と女が合体して初めて生まれるのが、人間なんです。ようにです、私共の心の中から神が生まれるということもです。私共が、無心になって、神様に向かうとき、「ね」。神様と、いわば、本当の交流が出来るわけです。無心になって拝むときです。神様も、やはり、無心になって、向こうて下さる。「ね」。ですから、一生懸命にそれこそ、もう、汗水流して、なら、大祓いなら大祓いを奏上させて頂いておるときにはです、ほかのことを考えたり、心に、頭の中に入ってくる隙が無い。それを、そろーっと、高天原にどん言いよったっちゃ、大抵、大体、素人の時にはです、「ね」。心が、色んなよその物音さえ聞こえてくる。話し声さえ聞こえてくる。大祓い上げながら、皆さんの中でもそうですよ、あっち見たり、こっち見たりしよる人がある。「ね」。そういうことでは、だから、神になる稽古にはならないて。一心不乱にです、神様に向こうて、一生懸命の御祈念または、その大祓いが奏上されておるときだけでも、私共は無心になれるんです。「ね」。ですから、それは、そのまま、神になる稽古であり、無心になる稽古なのです。そういうことが言えますよね。ですから、ほんなら私共がです、「ね」。ほんなら、神様にうち向こうてです、大祓いを上げておるときだけ、一心不乱に拝んでおるときだけ、が、無心であって良かろう筈は無い。「ね」。そこで、私共はです、「ね」。教えを行ずるということになるわけです。「ね」。そこから頂けれる和賀心。「ね」。和らぎ賀こぶ心というものを目指して、私共が、教えを本気になって行ずる時に、ここに生まれてくる心が、和らぐ心であったり、喜びの心であったりする。神様に向こうては一心不乱、「ね」。そん時に一生懸命の御祈念をしておるときには、もう、何にも、物音さえ聞こえて来ない。「ね」。無我夢中で神様に向こうておる時。神様と交流しておるとき。そういう時に、神が生まれる。私どもが、教えに取り組んで、その教えを一心に、行じさせて、御用の上にです、「ね」。言うなら、無心に、御用をさせて頂いておる時。「ね」。一生け、いわゆるこの方の行は、火や水の行ではない。家業の行と仰るのはね、その、家業の行ということは、そういう無心の状態で、私は、家業が出来るときにです、なるほどそれなら、間違いなく、家業の行ということになるだろうと思います。「ね」。教えをいただいて、その教えを守るとき、私共の心の中に、生まれてくる信心の喜び、いわゆる、和らぎ喜ぶ心、和賀心。その、和賀心と無心とは、私は、おんなじものだと、本来は。「ね」。我情我欲を離れてと仰るが、「ね」。いわゆる、我は無い、欲は無いというような状態を稽古していくわけですね、信心とは。皆さん、なるほど、神が生まれるということは、そういうことだと。ああ、そうかと。一つ合点してもらわにゃいけません。「ね」。圭介君の例をとりましたら、「ね」。欲もなからにゃ、得もない。ただ、親が参るから、お参り、訳は分からんなりにお参りしてきておる。これこそ無心でしょう。「ね」。そこに神様との交流があるからこそ、いわゆる、御神夢を頂いた、ま、時々では、御心眼を頂いたりいたします。神様と交流して、そこに神が生まれておるのです。「ね」同時に、無心ということは、「ね」。任せるということ。私の思いはありませんと。「ね」。けれども、ありませんじゃない、私は大体右のほうがええばってん、親先生が左と仰るから、任せるときには、すでに自分の心というものを捨てておるときですから、やはり、無心の状態と同じだというようなことを申しましたね。私どもが、一心不乱に神様に向こうて、御祈念をしておるとき、それこそ、物音一つ聞こえてこないような状態。一生懸命に、大祓いなら大祓いを奏上させて頂いておるとき。そこで私は思いました。こらあ、例えほんなら、若先生がです、また、親父の跡継いで、拝みやが出けたというふうに、例えばよし、言われてもです。こらあ、本気で拝みやになら無ければいけないなと、私は思うた。ただ、拝みやと言うことが、どうぞどうぞ、こうして下さい、ああして下さいという拝みやじゃ、もう、いよいよ程度が低いですね。拝み屋と言うても、ただ、「ね」。神が生まれることのために、「ね」。自分が無心の状態になれる、その楽しみとか、その喜びがです。あの、一生懸命の御祈念の姿ということになる意味合いにおいての拝みやです。してみると、皆さん、一生懸命御祈念せにゃいかんです。なるほど、物音が聞こえるようじゃ神に一心は届かんと仰るが、ほんとにそうです。後ろから、槍先で突かれるようなことがあっても、振り向くことは出来んと仰る意味がよう分かります。皆さんが、今、一時の御祈念を深修しておられますよね。ああいう状態がです、私共は無心の状態。だからほんなら、拝むときだけ、あれであって良かろう筈はありませんからです。「ね」。回れ右して、自分の生活に入るときです、神様のほうから。「ね」。私共は、教えというものを、何時も頂いとかなければならない。その、教えを行ずるという、私は、その生活。そこから、頂けてくるのが和賀心なんです。和らぎ喜ぶ心なんです。その、和らぎ喜ぶ心は、そのまま、我は無い、欲は無いという心の状態であって初めて和賀心。そういう事になりますでしょうが。「ね」。みんなも、そのようなおかげが受けられる。みんなが神の、ここに参ってくるみんなが、神の氏子じゃと仰る。「ね」。だから、ほんなら、神の氏子じゃからと言うて、その、今私が申しますようなことを、焦点においての、信心の稽古をなさらなければ、神になるということは言えません。神が生まれることも、勿論ありません。
そこで、例えば、昨日の朝のご理解などを、もう一遍こう、思うて見るといいですねえ。ほんとに、例えば、憎いと思うたり、「ね」。えー、はがいいと思うようなことの中にもです、「ね」。そのはがいい思いをしたおかげで、ほんとに、えー、情けない思いをしたけれどもです、「ね」。例えば、それを、対人関係で申しますとですね。あの人が、私に、根も葉もないことを言うて、私を辱めた。「ね」。もう、そのために、ほんなこてもう、死んでしまおうかとまで思うた、「ね」。けれども、初めてその教えを頂いて、分からせて頂くことは、一遍に、胸が撫で下ろされることはないけれどもです。「ね」。そうたい、神様だけが知ってござるとじゃからと言う気持ちで、信心させて頂いておるうちにはです。信心のほうが身についてくる。してみると、私を辱めた、その人のおかげで信心がこのように出けたという事になるわけです。「ね」。だから、生き神にとか、神になる道というのは、だから、そういう自分の敵役のような人達が、私を神にしてくれるということが分かりますでしょうが。「ね」。その人が、そういう難儀なことが、様々な難儀なこととか、その相手の人がです、私を、神へなることのために、使われてそれがあるという事になってくる。「ね」。そこでね、やはり私は、只今申しますように、焦点をね、金光様のご信心とは、生き神への道だと、こう言われるようにです。私共は、そういう生き神への道を、日々、深修しておるんだ、それを修行、修めておるのだというね、思いでなからねばいけないと。
えー、先月から、その次の、その月の、信心の焦点というようなことを、七月は修行月、「ね」。えーと、言うような。あれを字が書いてあります、短冊形のあの書いたもの。ほれで、この八月という月は、どういうことになるだろうかと。八月の月はなんと言うても、合楽の場合、願い月になるだろうと思う。「ね」。いわゆる、もうほんとに、後にもなければ、先にも無い。願い、願いだけの御大祭が八月の二十日には仕えられるからです。「ね」。なるほど、願いというからには、もう、どのような願いでも、なるほど、願いを立てていいのですけれども、ね。折角、願いを立てるなら、今日の御理解のところを、基にしたり、焦点にして思うてみるとです。ね。神様の願いが、至上になるとでも申しましょうか、ね。神様の願いが、私ども、氏子一人ひとりの上に成就して行くような、願いを掛けさえてもらわなければいけない。ね。言うならば、神の願いが成就する願い。その願いを、私共のの願いとする月なのです。私は、そういう風に、私は来月は思います。ね。その中には、だから、神へ、生き神への、おー、深修も出来るわけです。ね。先ほども申しますように、一心不乱に拝むことがです、ただ、自分の我情我欲を満たすことの為だけの願いに留まったらいけない。あら、そんなら、来月は、商売繁盛やら願うてはならんじゃろかということじゃ決して無い。ね。商売繁盛は願わなければいけません、願い月だから。とりわけ願わないかん。けれども、その商売繁盛がです、ね。神様の願いに沿うておらなければいけないということ。その辺のところで、大分、少し工夫しなさらないけません。ほんなら、来月は健康のことやら願われんじゃろかと、決してそうじゃない。健康のことは、何をするにも体が元と仰るから、体の丈夫を願わなければならんけれども、その体の丈夫が神の願いに通うておらなければいけないということ。ね。だから、その辺のところはです、信心の、もう一番微妙なところです。ね。同じ願いをしておるようであるんです。どうぞ、今日も商売繁盛いたしますようにと、甲乙の人が一生懸命願うておる。けども、甲の人は、ただ、商売が繁盛のことだけを願っておる。片一方も、商売繁盛のことだけども、その心の根本が違う。その商売繁盛がね、どこまでも神様の繁盛に繋がる繁盛でなからなければならないということなんです。心の、もう、実にデリケートなね、もう、微妙なことですよ。そこから、生き神へなる道というものが、あー、付いてくる、付いてこないの別れ道があります。ね。何十年間信心しとっても、そこんところを焦点にしなかったら、それはもう、金光様のご信心ではなくても良い、金光様の信心にはもとる。どこまでも金光様のご信心は、ね。神になる稽古だという事を思わせたいただかないけません。で、今日、私が、いくつも例をとりました、ま、というのは、無心ということです。ね。私共が、無心に神様に向かうとき、神様も無心に、こちらの方に向きを変えて下さる。その、無心と無心とが交流する。そこから、生まれてくるところの、おー、境地を、ね。生き神とは神がここに生まれるということであってというのは、そういうことなんです。ね。勿論、そこからおかげが次々と生み出されることでしょう。ね。そういう、例えば、事を申しましたです。だから、一生懸命に、御祈念をしておるでもです、その、願いのね、焦点が間違うと、それは無心ということにはならん。我情我欲で願っておるということになる。ね。我は無い、欲はない、ね。その稽古を私達は、任せるということを持って申しましたですね。任せるときこそ、無心の状態だと。そういう時こそ、神が生まれるのだという事を申しましたんです。どうぞ一つ、えー、私共はね、おおげさにいうなら、生き神様になる稽古をさせて頂いておるんだという焦点を間違えてはならないと思いますね。どうぞ。